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古着、ドクターマーチン、沈船ダイビング、海外旅行など雑記ブログ。Ex 観光ガイドブック出版社勤務、JICA海外協力隊 2018-1次隊 ミクロネシア連邦チューク州。月間約8万PV。訪問国は約50カ国。執筆依頼、取材、問合せはコチラ。

明治大学内の軍事機密「登戸研究所」に行ってみた【見学、一般開放、大日本帝国陸軍登戸研究所、オンライン、跡地、場所、風船爆弾、駒ヶ根】

神奈川県川崎市、明治大学内の軍事機密「登戸研究所」に行ってみた。

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小田急線生田駅から徒歩10分ほど、神奈川県川崎市多摩区にある明治大学生田キャンパス。その大学敷地内の端にひっそりと佇むのが「大日本帝国陸軍登戸研究所」。太平洋戦時に秘密兵器や偽札などをつくっていた、軍事機密の研究所である。

このエリアは私の地元なので以前からその存在は知っていたが、行ったことがなかった。太平洋戦争で大日本帝国海軍の拠点となったトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)でのJICA青年海外協力隊から帰国し、関心があったので訪問した。

私のミクロネシア連邦(旧トラック諸島)での活動は下記参照。

チューク(観光、旅行、ダイビング情報) カテゴリーの記事一覧 - Travel Kurarin

コロナウイルスの影響で、しばらく休館していたが緊急事態宣言がない時期は予約制で一般開放を受け付けている。今回訪問したのは2021年4月。入館無料。開館時間・時期は不規則なので来館を予定している方は最新情報を公式サイトで確認してほしい。無料とは思えないほど展示が充実しており、インターネットでは知ることが難しい情報がたくさんあった。

明治大学平和教育登戸研究所資料館 | 明治大学

登戸研究所とは

1939年(昭和14年)1月、特殊電波・特殊科学材料など秘密戦の研究部門として、通称「登戸研究所」が「陸軍科学研究所」の下に設立された。(中略)

敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した。それらの資料の殆どが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。

(引用、一部抜粋)登戸研究所 - Wikipedia

明治大学生田キャンパス、登戸研究所の場所

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明治大学生田キャンパスの構内図。

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かなり広い敷地だが、キャンパス内には登戸研究所をはじめ、いくつかの戦争関連の場所がある。残念ながら、コロナ禍のため私の訪問時は全ての戦争関連の施設を見ることができなかった。

登戸研究所はGoogle Mapにも登録されており、場所は見つけやすい。駅からは山道だが、生田緑地周辺の気持ち良い新緑が出迎えてくれる。

登戸研究所の一般開放予約

来館のため、事前に予約が必要。予約さえすれば一般人でも訪問可能。来館前の緊急事態宣言下で休館していた時期に、再開時期を問い合わせたことがあり、一般開放を再開するタイミングで電話で連絡をくれた。とても丁寧な対応だった。

その後、日付を決めて電話で来館予約を行った。予約可能数が決まっているので予約開始と共に電話予約したが、すぐに予約は取れたし、当日混んでいなかったのでそこまで急ぐ必要はなさそうだった。

明治大学平和教育登戸研究所資料館 | 明治大学

生田駅から明治大学生田キャンパスへ向かう

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生田駅から徒歩10分ほどで明治大学生田キャンパスに到着。登戸研究所は裏門側に位置するので、裏門から行ったほうが近いが、来客登録をする必要があるので正門で受付が必須だった。

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キャンパス内には登戸研究所の案内看板があるので迷うことはない。

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キャンパス内はけっこう学生で賑わっている。お昼頃はすごい混雑だった。

旧陸軍登戸研究所関連史跡「弥心神社」(現 生田神社)

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途中に神社がある。これも登戸研究所関連の史跡だ。

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案内板には解説がある。

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登戸研究所跡の碑が建っている。

明治大学平和教育登戸研究所資料館

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生田駅から計算すると約20分ほど歩いたか、登戸研究所に到着。

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開館しているのかわからないくらい、静まり返っている。

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日本帝国陸軍の研究所。スパイ用兵器や偽札、殺人光線、風船爆弾などの秘密専用兵器の研究開発をしていました。

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当時の防火水槽などが残っている。

弾薬庫

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登戸研究所のすぐ裏に弾薬庫があるが、閉鎖されていて外観のみ見学可能。

登戸研究所来館時の注意

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以前は撮影が禁止されていたが、今は条件付で可能。事前申請などは要らないが、歴史的に貴重な文書などを接写することは禁止されている。展示パネル全体や内観、撮影禁止ではない資料などは撮影が可能。

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コロナウイルス対策もばっちり。電話対応をしてくれた職員の方が出迎えてくれる。自分は2時間ほど見ていたが、他にお客さんは3組ほど。学生グループも2組ほど入ってきたが、自分ほど長時間見ている人たちはいなかった。

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当時の登戸研究所の建物の一部などが展示されている。

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明治大学生田キャンパス内には当時の弾薬庫などもあるが、コロナ禍で見学できなかった。

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受付。奥には休憩スペースがあって、座ることができる。

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パネルは当時の写真や新聞記事などが豊富に使われており、情報量が多く見ごたえがある。

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陸軍用地であることを示す、境界石。似たような海軍の石碑をチュークの夏島で見たことがある。

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登戸研究所は左右に広がっており、各部屋ごとに展示がある。

第一展示室「登戸研究所の全容」

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左が第一展示室。

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廊下には戦後に登戸研究所がどのようにして明らかになっていったか、展示がされている。軍事機密であった研究所の内容を今こうして見ることができることがどれだけ貴重がわかる。

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最初の展示室は登戸研究所の誕生や周辺地形、なぜ生田に作られたか、当時の陸軍の組織図などが展示されている。

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自分の生まれ故郷である川崎市多摩区なので、昔の航空写真などは興味深かった。

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登戸研究所周辺の航空写真を使った、時代ごとの遷移。

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登戸研究所の研究員のノートやバッジ。日章旗の寄せ書きは特に目を引く。自分の祖父の遺品にも寄せ書きされた日章旗はあった。

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バッジが現存しているのがすごい。

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色々な立地がよく、研究所に選ばれた登戸という土地。

第二展示室「風船爆弾と第一科」

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続いて、第二展示室。

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廊下には登戸研究所の設立までの歴史についての展示。

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登戸研究所で特に有名なのがおそらく、この風船爆弾だろう。

風船爆弾は、太平洋戦争中盤から後半にかけて日本軍(陸軍、海軍)が開発し、日本陸軍が実戦投入した特殊兵器[2]。 秘匿名称は「ふ号兵器」[2][3]。 「風船爆弾」は戦後の用語で、当時の呼称は「気球爆弾」である[4]。1944年(昭和19年)11月初旬から1945年(昭和20年)3月まで放球を実施した[5]。

戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器である[5]。

風船爆弾 - Wikipedia

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第二展示室では主に風船爆弾について展示がされている。

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日本軍が開発した、風船爆弾のミニチュアが展示されている。

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ここに風船爆弾の仕組みが詰まっている。デジタル技術がない時代に、こんな精巧な仕組みの物が作れたのかと、素直に発明に関心してしまう。

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風船爆弾を広げている写真。気球のような大きさだ。

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風船爆弾がどのような仕組みでどうやって太平洋を横断し、アメリカ本土まで行ったかが説明されている。

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風船爆弾は文字通り、爆弾を風船で飛ばす兵器。それとは別に牛疫ウイルスを風船で運び、アメリカ本土を攻撃する生物兵器も開発が進められていたようだ。

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この第二展示室には風船爆弾にまつわる情報や開発背景、技術解説などがたくさんあり、特に資料を読み込んだ。

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実際に風船爆弾がもたらしたアメリカ本土での被害などの展示もある。

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このあたりの情報は資料にまとめられていて、読み応えがある。

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風船爆弾の開発中の事故で亡くなられた方もいる。

怪力電波、熱線利用など電波兵器の研究も行われていた。

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人を攻撃する電波兵器や有線で遠隔操作する兵器、人工的に雷を起こす兵器、盗聴器など、他の秘密兵器の研究も行われていた。

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レーダー技術、電波技術の先駆けとして有名な「YAGIアンテナ」。日本の電波兵器についての解説などもある。

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廊下には風船爆弾に使用された和紙が展示されている。

第三展示室「秘密戦兵器と第二科」

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風船爆弾以外の秘密兵器や登戸研究所での軍事機密開発などが展示されている。

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Wikipediaから引用すると登戸研究所で研究・開発された兵器は

原子爆弾、生物兵器、化学兵器、特攻兵器、謀略兵器、風船爆弾、缶詰爆弾、怪力光線、殺人光線、電気投擲砲。

上記の通り、怪力光線などのようにいささか空想じみた研究をしており、実態が不明な点が多いこともあって、各種創作物の中ではオカルトめいた怪しい研究所として描かれることが多い。しかし実際には、どちらかといえば謀略やBC兵器、特攻兵器のような、地味かつあまりイメージの良くない研究が主だった。

登戸研究所 - Wikipedia

 とある。その多くがこの第三展示室で展示されている、偽札やスパイ用兵器などの情報工作などに使われる秘密兵器だ。

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かなり色々な秘密兵器を開発していたようだ。

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暗号文書に使う秘密インク、ニカメイチュウやウィルスなどの生物兵器と人体実験、盗撮用のカメラなどかなり多岐に渡る秘密兵器の研究と開発が行われていた。

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当時の研究所の勤務体系など、資料が紹介されている。

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現存する資料はとても貴重だ。時限爆弾に使われたと思われる時計盤などがある。

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秘密インキ、盗撮用の隠しカメラ、缶詰型爆弾、放火謀略兵器などのイラスト解説。

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飲み込めるメモ用紙、開けたことがばれない封筒、変装用のヒゲ、ウソ発見器など他にも秘密兵器が紹介されている。

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毒入りチョコレート、毒キノコ、万年筆型時限爆弾など、研究されていた秘密兵器はまだある。

第四展示室「偽札製造と第三科」

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登戸研究所の有名な開発品の1つ、偽札製造はこの部屋で展示されている。

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偽札製造をしていた建物の解説や技法、なぜ偽札製造をしていたのか、狙いはなんだったのか、など展示がある。

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当時の建物の扉や窓が残っている。

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偽札以外にも旧ソ連の偽造パスポートやインドルピー、米ドルの偽札も製造していた。

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お金を偽造することが戦争にどういった影響を及ぼすのか、登戸研究所に行く前はあまりピンと来なかったが展示を見て理解した。

中国の経済を乱すため、当時として40億円もの中国向けの偽札がこの研究所で作られ[4]、30億円もの偽札が中国で使用された「杉作戦」が有名である。

登戸研究所 - Wikipedia

暗室のクランク式入り口を体験できる。

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登戸研究所資料館の中央にある暗室。扉をつけなくてもクランク式の廊下にすることで部屋を真っ暗にできる仕組みになっている。

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頭では仕組みは理解できるが、やはり想像できない。実際に体験をお願いして、職員の方に電気を消してもらうと、本当に暗室の中は真っ暗になった。光の屈折を利用したすごい機能だ。

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暗室にはマツダ電球があった。

第五展示室「敗戦とその後の登戸研究所」

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最後の展示室。

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長野県駒ヶ根市の方から寄贈された、濾過筒の展示が迫力がある。

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軍事秘密と書かれている。「機密」ではなく「秘密」。

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けっこうな本数が並んでいる。

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細菌戦や生物兵器が使われても安全な水を確保するために濾過筒が作られたようだ。この濾過筒、おそらく同じものがチュークの沈船にも積荷として見つかっている。

画像引用 : ちょっと休憩中 : チュークのダイビングと日常

チュークのダイビングガイド KEISUKEさんが以前、似たような物を沈船内部で見つけている。

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側面には特許の文字。

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太平洋戦争での戦況の悪化と終戦に向かう歴史や勢力図が展示されている。

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長野県松代に移転計画のあった、大本営。登戸研究所も一部関わっていたようだ。

 

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移転用の洞窟なども掘られていたらしい。

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本土決戦のために登戸研究所も長野に移転。

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現存する、唯一の登戸研究所の開発品。

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当時の登戸研究所の研究員の日記などの情報がまとめられている。こういった情報は一度、過去に本として出版されていても絶版などで失われてしまうのでデジタル化されていることは後世にとって大変貴重な資料だ。

登戸研究所のオンライン展示解説など

YouTubeでの公式解説動画やオンラインセミナーなども豊富にある。

オンライン登戸研究所講座 [オンライン] | 山田 朗 | 明治大学リバティアカデミー

オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦:捜査過程で判明した日本軍の実態」

帝銀事件では,登戸研究所や第731部隊など膨大な旧日本陸軍の秘密戦部隊が捜査対象となりましたが,なぜ彼らが捜査対象となったのでしょうか。
また,当時の警察は旧日本軍組織のうちどれぐらいの人数を捜査し,どこまで秘密戦部隊の実態に迫ったのでしょうか。
今回の講演会では帝銀事件の捜査メモより以上の点を明らかにしていきます。
なお,8月はそれまでの主要な捜査方針とは異なる日本画家・平沢貞通が逮捕された月です。逮捕後,1955年に死刑判決が確定し,その後18回におよぶ再審請求が提起されるものの,平沢の生前は再審は認められませんでした。死後も再審請求は続き,現在は第二十次再審請求が行われています。

オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦:捜査過程で判明した日本軍の実態」 | 明治大学

www.youtube.com

www.youtube.com

参考リンク

陸軍の偽札製造拠点「登戸研究所」とは|神奈川・川崎の戦跡 戦後75年薄れる戦争の記憶 NHK

登戸研究所 - Wikipedia

https://core.ac.uk/download/pdf/59314615.pdf

登戸研究所、掘り起こし30年 元教諭のオンライン講演配信 「負の遺産を後世に」:東京新聞 TOKYO Web

陸軍登戸研究所、暗部に迫った高校生 30年の活動記録:朝日新聞デジタル

明治大学平和教育登戸研究所資料館 | 美術館・博物館 | インターネットミュージアム

【関連記事】夏島 観光、戦跡まとめ

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トラック諸島の日本海軍司令部の拠点だった夏島の訪問記。たくさんの戦績が残っている。

夏島 観光、戦跡まとめ【トノアス、トラック、トラック諸島、海軍司令本部、山本五十六、第二次世界大戦、トラック大空襲】 - Travel Kurarin

【関連記事】「トラック大空襲」を読んだ。

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神国丸で見つけた日本語の小説。75年間、船の中で眠っていた。

チュークの沈船ダイビングがまだ始まったばかりのころ、12年間かけて沈船の情報を集めていった、水中カメラマンの吉村朝之さんの著書、「トラック大空襲 - 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇」を読んだ。

「トラック大空襲」を読んだ【チューク、沈船ダイビング、連合艦隊、日本海軍、トラック諸島、吉村朝之】 - Travel Kurarin