「トラック大空襲」を読んだ【チューク、沈船ダイビング、連合艦隊、日本海軍、トラック諸島、吉村朝之】

トラック大空襲 - 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇

チュークの沈船ダイビングがまだ始まったばかりのころ、12年間かけて沈船の情報を集めていった、水中カメラマンの吉村朝之さんの著書、「トラック大空襲 - 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇」を読んだ。

1974年に初めてチュークを訪れた吉村さんはそこから12年間で357本のダイビングをし、各沈船の情報を集めていった。見つかっていない沈船の調査をし、駆逐艦 追風を発見したり、船の中に沈む遺骨の情報をメディアに発表し、厚生労働省が遺骨回収を始めるきっかけになったり、チュークの沈船ダイビングに大変貢献された方だ。

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この本は1987年に発行されており、現在は絶版だが中古本をAmazonで購入することができる。(※2000円程度の正規価格の中古本がAmazonに出品されていたが、すぐ売れてしまうようで、プレミア価格の商品が出品されている。)巻頭のみカラーで当時の沈船の様子が載っている。当時の水中写真はフィルムや使い捨てストロボだったり、今よりも水中写真を撮るのがどれだけ困難だったのだろうか。それを考えると、とても貴重な写真を見ることができる。チュークの沈船も年々劣化したり、物がなくなったりしている。写真を見て、今では見ることのできない、今とは全く違う様子に驚いた。レコードや日本刀など、今では見ることができない。多くのものが失われて、崩れたことがわかる。そして、最後には愛国丸の遺骨の写真が掲載されている。簡単にいける場所ではないからこそ、その写真の凄みを感じた。

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チュークの観光客のほぼ全員が沈船ダイビング目当てだ。

また、ダイビングの様子も今とは全く違う。BCがないハーネスだけのダイバーやチューク人のガイドはジーンズで潜っている。加速減圧などの減圧理論も今とは違っただろう。

当時の様子について、インターネットではわからないことがわかる

吉村さん自身の体験であり、当時の様子が描かれている。これらは今のインターネットではなかなか調べることのできない貴重な内容だ。そして、各船の歴史や戦績に詳しい。そして、俺が読んで一番印象に残っている「チューク大空襲の時の船の乗組員」の話が書かれている。

チュークの沈船ダイビングを築いた、キミオ・アイザックが花を持ってダイビングしていたと書かれていた。キミオさんの人情がわかるワンシーンだ。

記録によると、最初に爆撃されたのは春島の滑走路、竹島、楓島、夏島の滑走路などで、迎撃ができなかった。

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現在の竹島。滑走路の名残である直線に切られた海岸線。

愛国丸に初めて潜った日本人は吉村さん。

日本海軍が使っていた船は2/3が徴用船だと言われている。

チューク大空襲に記録がリストで載っている

チューク大空襲で被害にあった日本海軍の船、全82隻のデータがリストで掲載されている。リストには環礁の外で沈んだ船まであり、現在の沈船ダイビングでは聞きなれない名前もある。現在のチュークで潜れるのは約40隻。今の沈船ダイビングでは名前は出てこないが、もっと多くの船が沈んだのだ。軍籍の船も22隻、周辺で沈んでいる。

今は平安丸が最も大きな船だが、第三図南丸はそれよりも大きかったらしい。しかし、戦後に引き上げられている。

チュークの沈船は状態が良い、物が残っていることが特徴だが、それは戦後すぐ、アメリカ国防省により平和を願って保管され、その後も引き上げがほとんど行われていないことが理由だ。

環礁の枠の島、特に水道あたりにも日本兵がいたようだ。今でも最大の北東水道には日本軍が建設した灯台が残っている。

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北東水道に残っている、日本軍の灯台。

日本は国際法を無視して、オランダの病院船を拿捕していた。証拠隠滅のために戦後、沈めたらしい。

トラック大空襲は数日後、大本営発表ではやはり嘘の報道がされていた。少しダメージはあったが、敵を撃退したとまるで勝ったかのように報道されていた。

文末には吉村さんの感想などが書かれていて、「チューク人の生活は理解できない」とあった。なんだかちょっと安心した。当時からチューク人の生活や考え方というのは、ほとんどなにも変わっていないのだろう。

キミオさんの名前は日本兵につけてもらったらしい。

吉村さんの撮影には末永さんも協力している。吉村さんから感謝の言葉が書かれていた。こんな昔から、、、!と驚き、今でもチュークの第一人者である末永さんの偉大さを感じた。

追風の発見、文月の調査

ソナーを使い、何度も潜水をして追風を見つけた吉村さんは文月も見つけるために調査をしていたが、見つけることができなかった。その後、文月は見つかっている。吉村さんの予想沈没場所が本には書かれていて、ほぼ予想は当たっていたようだ。

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現在の文月。水深は約35m。

吉村さんの調査によると、環礁内で沈んだはずの船で、まだ見つかっていない船もあると書かれている。つい先日も新しい飛行機が環礁内で見つかった。まだ調査が行き届いていないチューク、見つかる可能性はあるだろう。

伊号169号、神国丸、富士川丸など、各船について最も詳しい資料本

チューク大空襲に関与した全ての船が網羅されており、今でも潜れる各船の解説がかなり詳細に書かれている。

真珠湾攻撃に参加した伊号潜水艦169号は、事故で沈んでしまった。島民に賞金をかけて目撃者を探したそうだ。

神国丸も真珠湾に参加した船だ。今ではチュークの沈船ダイビングで定番の船の1つになっている。沈没した時、たくさんの人が海を漂い、半日後、チューク人がカヌーで助けてくれたそうだ。また、本土引き揚げ船の赤城丸。56名の引揚者だけの小舟が1週間漂流した。生き残った人たちは氷川丸でパラオに向かい、別の船で内地に戻った。こういった、吉村さんの調査をもとにすると、やはり、厚生省の記録の死者数には誤りがあるらしい。

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神国丸で見つけた日本語の小説。75年間、船の中で眠っていた。

神国丸は戦後、神戸桟橋が引き上げを試みたが失敗。神国丸のページにはダイバーが遺骨を手に持った記念写真が載っている。今では考えられないことだが、衝撃的だ。この写真を見ると、なかなかショッキングだ。吉村さんも「沈船を美しいとかかっこいいとか捉えることに一抹の抵抗があった」と書いている。しかし、潜るからこそ見れるのであり、自分の目で見た衝撃というのは写真には代えがたいものがある。

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富士川丸のドローン写真。マストは水深6mくらい。

海面に出ていた富士川丸のマストの写真が載っていた。想像していたよりも、高く、突き出ている。海面6mくらい出ていたらしい。今の富士川丸から想像できない。マストと船橋が残っていた富士川丸は今よりももっと美しかったのだろう。山鬼山丸のマストも出ていたらしい。

当時、チューク人が素潜りなどで沈船から物を持ってきていたらしい。中でも火薬はダイナマイト漁に使えたそうだ。五星丸の弾薬は今でもダイナマイト漁に使っているやつがいて、40年前と何も変わっていない。

第六雲海丸は元々、海外の船。拿捕ではなく、日本の会社が買ったもの。

船の博物館の「宗谷」はトラック大空襲から生還し、現存する貴重な船

いくつかの船はトラック大空襲から逃れた。しかし、それらのほぼ全てが軍籍の駆逐艦など。水上機母艦、秋津洲は脱出したがフィリピンのコロンで沈んでしまった。俺はこの船にも潜ったことがある。トラック大空襲の中にはほぼ無傷で本土まで戻った船もある。現在でも見ることができるのがお台場の船の博物館にある、宗谷。空襲を乗り越え、本土に戻り、戦後には南極観測船として活躍した。おそらく、トラック大空襲を逃れ、現存する唯一の船なのでは?(未確証)

参考:宗谷 (船) - Wikipedia

ミクロネシア連邦の独立

1960年の国連総会で植民地独立宣言が採択された。戦後、世界中で次々独立した植民地国や信託統治国。しかしミクロネシアは最後まで残ってしまった。1978年に独立草案に対する国民投票が行われた。マーシャルはすでに基地があり、核実験の保障があるので反対。パラオも基地ができつつあり、反対。そして残った4つの国、つまり現在のミクロネシア連邦の4州が取り残されて独立ミクロネシア連邦となった。パラオ、マーシャル、ミクロネシア、個々の判断は正しかったのだろうか。政治や経済のことはわからないが、これらの国を比べてみると最も発展が遅れているのはミクロネシア連邦のように俺は見える。

 

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