まず、森小弁が若い頃に参加していた自由民権運動の話が前半にあるが、正直日本史がさっぱりな俺には全然理解できなかった。当時の時代背景とかを知っていないとこういうのはわからないものだが、太平洋戦争についてもチュークに来てから勉強しているのでそれより以前の時代はもっとわからない。書かれている文体も原稿の掲載が新聞のコラムだっただけあって、すこし難しい。当時の言葉使いや土佐弁?がそのまま載っていて、本物感があっていいんだろう。けどちょっと読みにくかった。
本当の森小弁の弁の旧漢字は辨。人を裁くという意味があるらしい。
裁判所?奉行所?に勤める父親がつけてくれたそうだ。
小弁、と聞くといくら昔の人の名前でも珍しいな、と感じていたが、実際に小辨は当時でも珍しい名前だったようだ。自由民権運動に参加して一度逮捕されて2年の禁固刑。獄中ではたくさん本を読んだことがポイントになったようだ。俺も暇だ暇だといって腐ってないでこの2年間もっと本とか読むようにしよう。
文中に小弁が参加した演説で「外国人の雑居を許すな。日本人は日本のために生きて日本のために死ぬのだ」というフレーズがあった。今とは正反対の意見。時代が考え方になるというのは本当なんだなぁ。メディアとかが作り出した考え方とかは信じて疑いにくい。そんな時代にまさにダイバーシティを貫いた彼はすごいなぁ、と感じる。今でこそ多様性とか言ってるけど、結局みんな実は人種差別とかしてるし、気付いていないだけ。
小弁は書生として仕えていた場所でヤシの実に会い、南洋を知って、憧れたらしい。今も昔も南洋はヤシがアイコンなんだねぇ。自由に憧れていたから南洋で政治家になるつもりでチュークにきたらしい。
その当時でもチュークは粗野で気が荒いと書かれている。野蛮なトラック人って。もう大昔からそういう評判なのかな、、、。
ポンペイの日本の商社で働いていたチューク人を雇って、交渉した。なんか当時でも英語の通訳がいたのがちょっと意外だった。ドイツとかスペインから教育を受けていたのかな。上陸は不可、とするチューク人に向かって海に飛び込んで禊を見せて、上陸許可を得たらしい。そういう形式張るところが日本っぽいし、途上国っぽい気もする。
当時のチューク人は指の先まで入墨をしていて、大きなピアスを三重にもしていたので耳が垂れたり千切れていたらしい。今じゃそんな人誰もいないな、、、。でも入れ墨はみんな大好きでよく入れてる。
チュークも昔は女性は男性の前を低くして通らなければいけなかった。今でも男尊女卑は残ってるのかなぁ。外国人で男の俺にはわからないことがたくさんあるんだろうなぁ。確かに政府関係の仕事で女性に会うことは全く無い。
コンはパンの実が取れない9-3月の間の保存食として生まれた。鰻は水の神で鰻を取ることは禁忌。禁忌を犯すと全員3日間仕事をしてはいけない。村の禁忌と神の禁忌がある。罰則も違う。
二人目の駐在員として来たのが白井さん。この前、電気局で会った人が白井さんの子孫だった。
産前産後や月経中の女性は別の小屋に隔離される。男性が近寄ることは禁忌。これはチュークだけじゃなくて太平洋州で見られる習慣かも。
ヤシ酒はあっという間に発酵してお酢になってしまって、3日で酒じゃなくなるらしい。とるのが面倒なのかな?今はもうビールに変わっていてこの島で見ることはほとんどない。離島ではまだ飲まれているみたい。ヤシには成長段階に応じてたくさんの名前がある。
女系社会なので、不倫をしても女性の非は問われず、男が追い出される。不倫をした赤山は水曜島の酋長に殺された。今でも女性問題で殺されたり殺したり、が平気であるチューク。ある程度近代化したように見えて、まだ原始的な考え方の感情の部分は多いんだろうなぁ。
小弁は銃の火薬の調合時に事故で右手首を無くした。自分で刀で叩き斬って、薬草で治したらしい。これ聞いてすげぇ、、、と思った。協力隊員なんて歯の治療とかで帰国するのに、、、。根性が違う。
戦争に負けたスペインからドイツがグアム以外のこの周辺を買った。ドイツは小弁が勢力を持つモエンを避けてトノアスに支庁をおいた。グアム以外放置していたスペインとは違い、手を伸ばしてきた。小弁は日本統治時代より前に、英語や日本語ができるチューク人を先生とし、学校を作っていた。すげぇ。自力で全部やってる。
一次大戦時にはドイツ支庁が逃げていた南洋諸島を無血占領。もぬけの殻の島々なのだから当たり前か。マーシャルからはじまって、次々に占領。日本軍はチューク周辺ではドイツ船を攻撃したりしたようだ。ドイツ統治時代から、トノアス南沖は水深があるので船をとめておくのに便利だったみたい。今の沈船も夏島の南東に多いのはこれが理由なのかな。
第一次世界大戦時にチュークは小さな島がありすぎて、当時の日本軍が持ってる地図では点みたいな島も多く、ハエの糞だと思ったこともあるらしい。日本軍の鞍馬がモエンを攻める時にはドイツ軍はおらず、攻撃される直前で小弁たちが日本の国旗を振った。それで攻撃は免れた。
こうしてチュークは日本の領土となったわけだが、皆平等に暮らせる、徳で納める政治を目指した小弁にとって後にトラックが武力の道を進むのはつらかったようだ。統治当初はベルサイユ条約で武装化は禁止されていた。戦争が始まると小弁たちは自分が来なければチュークはこうならなかった、と憂いでいた。
四季諸島の近くにはそれぞれの季語の島。春の近くには桜、秋の近くには楓。そんな風に決まっていたのね。知らなかった。
日本の統治が始まり、小弁を中心に学校ができた。酋長を重んじるために19人の酋長を日本に視察に連れて行った。初めて文明に触れるチューク人たちは飛行機を鳥だと勘違いするほどだったらしい。日本橋三越のエスカレーターにはビビリまくり、エレベーターは下から人が押していると勘違いして信じない。この視察団は観光団と呼ばれ、恒例になったそうだ。本によると、酋長たちはスーツとかを買っていたらしく、西洋文化を入れたのも日本ってことかな?
夏島に駐在していた海軍と島民の交流、士気を上げるために相撲大会が企画され、そのまま運動会になった。
1914年には相澤と中山が貿易会社や商社の社員としてチュークに住み着く。二人とも本来はチュークに来る予定ではなかったが病気や倒産などでチュークにいきついた。二人とも酋長に婿入りした。中山は離島のウルルの娘と結婚した。このウルルが環礁外だから中山一族は離島出身だ、というわけだ。
平坦な土地が少ないチュークでは農業は難しく、日本からの移民に鰹節製造をお願いして貿易をした。主産業であるコプラはネズミの被害にあうことがあり、トタンを巻いてヤシにネズミ返しをつけることで被害は軽減した。
産業ができ、貨幣が流通すると収穫などを分配する酋長の権力は弱まり、金さえあれば誰でも何でも買えるようになった。酋長の目を盗んで酒を飲むやつもいた。そうしてチュークの村社会は崩壊していったようだ。今じゃ酋長なんて聞かないし(実在はしていて、制度はあるらしい)。
南洋貿易と競合を避けるために小弁は水曜島に居を移す。夏島には日本人が通う尋常小学校ができた。冬島、月曜島、なんと離島のモトロックにも公学校ができた。学校では野菜作りもしていたそうだが、今のチュークじゃ全く野菜なんて作られていない。
日本との混血が羨ましがられ、日本語の名前が欲しい人が増えた。小弁は彼らに名付けることもした。警察や役所の人間は辞令でやってきたのでチュークを気に入らず、現地人を見下している人もいた。そういう人がネズミとかトカゲとか酷い名前をつけることもあったそうだ。移民も増えて、喧嘩や差別問題も少なからずあった。それらの差を埋めるために、夏島を一部埋め立てて大運動会を行った。
夏島には旅館もあった。そう考えると、当時はある意味観光業を行っていたわけで、今はさっぱり。見方によっては日本統治時代の方が良かったというのは本当かもしれない。
文中に印象的な一文があった。
「トラックでは今しかありません。過去も未来もないのです。パンの実はある、ヤシの実はある。何もしなくても飢え死にもしないで島で生きてきた人たちなのです。いつかくる将来では誰も働きません。1日1日先の目標を与えることで初めて物事が進むのです」
これを読んで、今の自分の気持ちがすごく情けなくて、恥ずかしくなった。現地人は仕事しないとか考え方があわないとか効率が悪いとか相手の悪いところばっかり考えてしまう。青年海外協力隊は現地の文化に溶け込んだ上で、できることをやっていくべきなのに先進国のやり方、自分の考え方を押し付けてしまう。これじゃあうまくいかない。大酋長となった小弁はこういった考え方ができていたからこそ、というわけだ。見習わないと。小弁はとにかく贈り物や商品を用意していた。これが物事を円満に進める秘訣かな。今でもとにかく食事や物で交渉をするチューク。昔の日本もこんな感じだったんだろう。賄賂とか。
武装化に伴い、環礁の枠の島にも砲台が設置された。今生活していると、あんな島に設置するのはとても困難に思える。環礁に入るパスも魚雷が装備されていた。かなり物資がチュークにあった証拠だ。チュークにいた艦隊の司令官は対米戦争に反対だったようだ。チューク人もけっこう徴用されて土木作業で働かされていたようだ。多分奴隷みたいにされていたんだろうけど、ここで半日感情はなぜ生まれなかったんだろう。
戦争が始まり、人は増えても内地との輸出入はなくなり商売はできなくなる。商店も映画館も旅館もお店は全部閉店した。日刊トラック時報という新聞があったがそれも廃刊になった。日系人の兵隊への招集もあったようだ?
小弁が最初に住んでいたイライスは今俺が住んでいるところだ。今じゃイラスと呼ぶ。囚人舞台の本を読んだときにもイラスの空港を埋め立てる過酷な労働が描かれていて、小弁はここでチュークの礎を気付いた。今住んでいる土地はすごい場所なんだなぁ。夜、空を見上げながら当時のことを想像してみる。今立っている大地に彼らがいたのは確かで、過酷な労働があったからこそ、飛行機の離着陸もできる。
1944/2/15に米軍の無線を傍受し、米軍が接近しているとして厳戒態勢に入る。周辺を捜索しても敵艦隊は見つけられず、2/16には平常配備に戻した。そして、トラック大空襲が起きる。
チュークの言い伝えでは夜光虫は新月と新月の間に亡くなった魂らしい。確かに、日が暮れた後に見える夜光虫はとても美しい。
空襲後にも上陸対策で陸軍が送られてきて、あっという間に45000人もの兵がチュークに来た。水曜島に来た陸軍隊の将校が森茂喜。後の森喜郎首相の実父。飢餓状態になっても、チューク人の食料を奪ったりレイプしたりはなかった。水曜島では小弁とその子供達、将校と相澤が中心になって組織的な自給自足が行われていた。農業や漁業も知り尽くしているチューク人がベースとなり、乱獲などをせずに少ないながらも安定した自給自足をしていた。
4/30と5/1にも大規模な空襲があった。
終戦間際には水曜島でも食料確保が難しいようだったが、春島や夏島よりマシだったようだ。前に読んだトラック島日誌の方が内容が悲惨だった。春島では餓死者がたくさん出て、埋葬や墓地も満足にできなかったと書いてあった。
終戦後すぐに小弁は息を引き取ったらしい。さすがに高齢で寿命だったのだろうか。なにかで病死、と読んだと記憶していたがそうではないようだ。白井は環礁外の離島に逃げようとして、途中で亡くなってしまったのかもしれない。
その後も森ファミリーはチュークで続いていって、大統領になったり、高知県と交流したりしている。先日も高知県から親戚が来て、結婚式に参加していた。
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戦前の話だし、ということで済ますにはもったいないくらいの本だった。自分がチュークにいるからこそなおさら真に迫る内容だったし、人との関係性、物事の進め方は今の時代でも通じるものがある。結局、先進国だろうが後進国だろうが今も昔も人が関わっていて、そこには家族や仲間、友達がいて。当たり前のことだけどその人達とうまくやっていくしかない。そしてこの小さな島社会じゃ上手くいけなければ逃げ場はない。青年海外協力隊に全然関係ない話だと思っていたけど、逆だった。その辺の適当な青年海外協力隊のブログやエッセイよりも大変ためになる本だった。
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