Travel Kurarin

旅行ガイドブック出版社サラリーマンの旅のメモと青年海外協力隊(2018年1次隊、ミクロネシア連邦チューク州 観光)のメモ

トラック島日誌(窪田 精 著)を読んで。

うみさんから借りた、すごく古い本「トラック島日誌」を読んだ。著者は戦時中に日本からチュークに連れてこられて労働をしていた、囚人部隊の生き残りの1人。

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もう数十年前の本だし、絶版していてなかなか貴重。自身の知識として残しておきたいことをメモした。

 

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囚人部隊は全国から3年以上の刑期の人が集められ、横浜刑務所から送られた。看守も同様だった。多い時で1500人くらいいたらしい。日本人は30000人以上いた。最終的には餓死や泥棒で殺された人が多く、囚人部隊は50人程度、陸海軍は8000人以上が死んだ。

 

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著者は劇団の一員として反戦劇をやっていた。ただそれだけで逮捕されて、刑務所行きになった。言論や思想の自由は全くなかったのか、、、。今でこそ、他人と違うことでアイデンティティを保てる。でも、それは平和で宗教的価値観が不思議な日本だからできるのだろうか。

 

ご飯は麦飯があったが、労働はきつい。兵隊の吸い殻を拾ってタバコを吸っていた。体罰もあった。中には脱走をして自殺するものもいた。デング熱も多かった。

 

そんな中でも、意外と看守の提案で慰安のために演芸会をやったりしていたようだ。囚人の中には歌舞伎や芝居、俳優、漫才師などがいて、さらに衣装屋、カツラ屋もいた舞台は大工が作り、画家が背景を書いて、電気工が証明をつくったそうだ。囚人部隊の手作りの演芸会だった。夏島の第四艦隊司令部からも来賓として偉い軍人が見に来るほど盛り上がり?があったようだ。演芸会な出ることになると、午後の仕事が免除された。

兵隊も同様で、脱走兵もいたようだ。

 

春島にも慰安婦がいた。メッチ(メチティウ)には南風荘という慰安所があった。

 

宿舎では蚊帳を使っていた。宿舎のトイレで隠れてタバコを吸う。歯磨き粉をかけられて、それを目印に捕まる。

 

春島の飛行場の基礎は囚人部隊によって作られた。ジャングルを切り出し、山から運んだ土を均した。

 

中には腕っぷしが強すぎて看守が扱えない囚人もいた。ほとんどの日本人が痩せている中、チューク人は当時からガタイが良かったようで、痩せた日本兵よりももっと強く見えたようだ。女性も丸く太っていたらしい。

 

統治が始まってから、日本語教育を受けたチューク人は軍人や官吏が面白半分につけた日本名があって、それらは変なものばかりだった。キリスト、ひでよし、マレスケ、お吉、おでん、桟橋、積木、ケンカ。など。

 

囚人の中には性欲が溜まりすぎてジャングルの中で同じ隊の囚人を襲った人もいた。

シゲトの前の中村桟橋は中村部隊が駐在していたから。

 

悪さをしたり、容疑をかけられるととにかく木刀で殴られる。酒をかけられて、蚊に刺されるようにされて手足を縛られたり。

 

囚人の中には器用な人がいて、ヤシからパイプ、貝殻の指輪などを作って軍人と物々交換をする人がいた。軍人からタバコをもらい、それを炊事場などで働く囚人部隊にまわすと、砂糖や豚の脂肪、缶詰を横流ししてもらうことができた。それらは外交と呼ばれた。もちろん、本当な違法。外交をして、勤務中にバレずに戻れるように日時計を作る人もいた。やっぱり見つかって拷問を受けることもあったようだ。

 

1942年12月に春島第一空港は完成した。

 

肉体労働だけでなく、炊事や事務、大工、理髪、雑用などの仕事もあった。何人かはマーシャルやマリアナで仕事をしてからトラックに移動になった人もいるようだ。

 

医療用アルコールやニスからこしてアルコールを取って飲んでいたらしい。

 

紙芝居やレコードなんかが娯楽だったようだ。

 

空襲は日本軍が1日で受けた最大の損傷。春島には防空壕がなかった?

 

ヘイルストーン作戦以降も、アメリカ軍の空襲はあった。日本軍も後方から零戦を補充して応戦していたようだ。夜間空襲もよくあったが、日本軍の飛行機はレーダーがなくて夜は飛べない。

 

トーチカは空襲後に作られた?

 

食料がなくなり、配給はかなり少なくなった。芋をつくるために農耕をしても、虫がついて全滅してしまう。トカゲやネズミも取り尽くされて、魚は取る道具がなかったり、あまり釣り針にかからなかった。ヤシガニも食べ尽くされて、いよいよ植物を塩ゆでにして食べても、お腹を壊したりした。タンパク質がなくてどんどん衰弱していった。芋泥棒もでた。陸軍では火薬が手に入りやすかったのでダイナマイト漁をしていた。しかし、空襲で魚もほとんどいなくなっていたし、火薬も貴重だった。

 

最初のうちは囚人の死亡者でも葬式をして火葬をしていた、というのにはちょっと驚いた。そんな状況でも死者を敬う気持ちがあるのも、宗教教育の賜物なのだろうか、、。

 

どんどん食糧不足は悪化して、毎日人が栄養失調で死んでいった。人が死ねば食料が減らなくなる、そんなことが本には書かれていた。飢えに耐えて兼ねて逃げた人は即殺された。

 

看守に殴り殺されても、死亡診断書は心臓麻痺、だったようだ。

 

その頃、チューク人はみんな離島にカヌーで逃げていたようだ。地の利は島民にあったのだろうなあ。

 

炊事や経理部から横流しされる米や缶詰、芋、タバコがヤミで売られていた。塩を海水から作ったりもしていた。タバコは中でも高級品で、当時の月給2ヶ月分くらいだったそうだ。買えないから芋の葉っぱなどからタバコを作っている人もいた。

 

餓死するような状況でも、髪の毛と爪は伸びる、と書いてあって衝撃を受けた。

 

芋泥棒を殺すために銃を持って夜警をする。弾や銃も貴重だったが、アメリカ軍の空襲の時は全く撃たないのに、芋泥棒の日本人には簡単に発砲して殺していた。もう本当の敵はアメリカ軍ではなくなっていたのかな、、。

 

本の中にチューク語でケレロエー、というのが出てきた。今と同じ意味のさよなら、という意味。当たり前かもしれないけれど、チューク語も70年以上前からずっと変わってないんだ、ということに驚いた。

 

終戦間際になると、囚人部隊のほとんどが死んでいて、生き残りは30人程度だったようだ。その中で、昔の同じ隊の仲間久しぶりに会えると嬉しかった、と書いてあった。

 

終戦はすぐには知らされず、2日後にわかった。米軍が上陸してきた。終戦を祝って、著者も看守と酒を飲んだようだ。きっとみんな、すごく安心したんだろうな。みんな信じ切って戦っていたような書かれ方をする戦争だけど、ほとんどの人たちはこんな平和な気持ちがきっとあったんだろう。終戦後にはやはり蓄えてあった食料が解放され、それを食べれずに死んで行った仲間に悪くて食べれなかった、と書いてあった。

 

終戦後の10月半ば、やっと引き揚げが始まった。引き揚げにはアメリカの船も一部使われたようだ。引き揚げ時には服がなく、チュークから冬先の日本は相当寒くて辛かったそうだ。そして、数日刑務所にいて、その後釈放された。

 

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普通の教育では出てこないような内容ばかりで、予想はしていたけどそれよりつらい状況だったようだ。今のチューク国際空港の基礎は彼らが作ってくれた。俺の家は空港の横にあって、滑走路がすく見える。本に書いてあった、切り開かれたジャングル、ならされた土地、まさにそこに今俺は住んでいるんだなぁ、、、と考えると不思議だ。そしてそれだけの戦火にあったのが嘘のように、島にはジャングルが生い茂っている。当時から海は綺麗だ、と著者も書いていて人の感性も変わらないんだなぁと感じた。